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コラム
2023年6月11日

肥前國“仏の路” Vol.4〜鵜殿石仏群〜

 肥前國“仏の路”の4回目、今回は唐津市相知町にある「鵜殿石仏群」を紹介します。前回紹介した「立石観音」と近い場所にあり、佐賀県の史跡にも指定されている重要な仏教遺跡です。私が「鵜殿石仏群」を初めて訪れたのは、2009年。本格的に映像コンテンツ制作に取り組み始めた頃で、初めて一眼レフカメラを購入した頃でした。そして仏教美術、中でも磨崖仏に興味を持ち始めた時期でもありました。

◼️鵜殿石仏群のある相知町天徳の風景
◼️木々の間から見える岩壁の一部

 私が磨崖仏に興味を持ったのは、大学でのコンテンツ制作がきっかけでした。eラーニング教材としてシルクロードをテーマにしたコンテンツ制作を担当したのですが、その中で、世界遺産の「敦煌・莫高窟」や「龍門石窟」など様々な仏教遺跡に触れる機会がありました。写真を通して、たくさんの仏像や壁画などを見て、徐々にそれらの何とも言えない魅力に惹かれていきました。歴史が好きなこともあり、様々な国家(王朝)との関わりやユーラシア大陸の東西交易の影響、歴史的な事柄と絡めるととても面白いものでした。そこから、身近な場所にも同じような仏教遺跡や石窟寺院が残っているのではないかと調べ始めて、最初に出会ったのが「鵜殿石仏群」でした。

◼️佐賀県指定史跡「鵜殿石仏群」

 さて、「鵜殿石仏群」は、南北朝時代〜室町・戦国時代の石仏60数体が残る仏教遺跡です。その由来は、大同元年(806年)に唐から帰国途中の弘法大師・空海が、「釈迦如来」、「阿弥陀如来」、「観音菩薩」の三体の仏像を刻んだのが最初とされています。その後、天長年間に唐から帰国した僧・常暁によって、この地の洞窟に「平等寺」が建立された、と文禄3年(1594年)の『鵜殿山平等院略縁起』に記されています。中世には、松浦党の岸岳城主・波多氏からも手厚く信仰されていたようですが、天文年間の波多氏と龍造寺氏との戦いで、寺は焼失し洞窟天井も崩壊。波多氏滅亡後は、配下の久我氏が窟を守り「明王院」を建立、真言密教の修験道場として明治20年頃まで続いたそうです。[参照:相知町史 下巻]

 参道を登って来て境内正面に見えるのが「二天窟」です。ここには、『持国天』『十一面観音』『不動明王』『多聞天』の四体の磨崖仏が彫られています。『持国天』は東方を守護する仏、『多聞天』は北方を守護する仏で、この二天で御本尊である『十一面観音』を守っているとのこと。この三体が鵜殿石仏群を代表する磨崖仏で、現存する中で最も古い14世紀のものだそうです。間にある『不動明王』は、他の三体より彫りが薄く、作風も違って見えるので、時代が違うのかもしれません。

◼️「二天窟」(左から持国天・十一面観音・不動明王・多聞天)
◼️持国天(左)と十一面観音(右)
◼️不動明王(左)と多聞天(右)

 この二天窟には、現在、風化防止のための覆屋が付けられています。(2015年まではありませんでした。)覆屋があることで全景を見ることは難しくなりましたが、風雨を凌いで良い状態で後世に残していけるので、良い取り組みだと思います。素人目ですが「鶴の岩屋」や「山彦磨崖石仏群」とは違って硬い岩質のようなので、造立年代から考えると風化の進み具合は緩やかに見えます。

◼️覆屋がない時の二天窟(2009年撮影)

 二天窟の左側の南面壁には、小さな龕が一列に並び、薬師如来が彫られています。壁面端には、不動明王が彫られており、左に『制多迦童子(せいたかどうじ)』、右に『矜羯羅童子(こんがらどうじ)』を配置してあります。矜羯羅童子は、風化や表面の苔類の影響で、目を凝らしてやっと顔が判別できるかどうかの状態です。この三体は、不動明王信仰をよく表したものですし、風化が進んでしまっているのは残念です。

◼️南面壁全体
◼️仏龕に彫られた薬師如来
◼️不動明王(中央)と制多迦童子(左)、矜羯羅童子(右)
◼️不動明王足元の制多迦童子(右手に蛇を掴む)
◼️合掌する矜羯羅童子

 二天窟の西側には、半洞窟になった大きな岩屋があり「主窟」となっています。特に磨崖仏は彫られておらず、不動明王像を中心に多くの石仏が祀られています。それほど古い時代のものではなさそうです。「相知四国第八十八番札所」の御堂がありました。主窟の前には大きな岩が散乱しており、洞窟が崩落した様子を思い起こさせます。境内にも崩落した岩があり、彫られている磨崖仏が地面に横たわっています。不動明王や『韋駄天童子(いだてんどうじ)』と考えられています。

◼️主窟への入り口
◼️主窟に祀られている石仏
◼️洞窟崩落の様子が垣間見える風景
◼️崩落した岩壁の不動明王
◼️崩落した岩壁(右端が韋駄天童子)

 二天窟の右側(東側)には、「胎内くぐり」があります。入り口には『大日如来』が彫られており、胎内くぐりの中にも何体もの仏像が刻まれています。現世と仏の世界(胎蔵界)とを結ぶ道と言われる「胎内くぐり」。何人もの修験者が祈りを込めてこの岩穴をくぐったことでしょう。(私は、何か恐れ多くて、くぐったことはありません…)大日如来のお顔や手の部分が少し削れてしまっています。2015年の写真では、お顔の形はわからないものの、まだ表面は綺麗な状態でした。

◼️現世と仏の世界を結ぶ「胎内くぐり」
◼️「胎内くぐり」の内部
◼️大日如来(智拳印を結んでいる)
◼️2015年撮影の大日如来

 「胎内くぐり」の奥の東面壁にも多くの龕があり、十一面観音や千仏が彫られています。その奥にも岩山を囲むように道が続いていますが、落石の危険があるため立ち入り禁止となっています。奥にも多数の磨崖仏が存在し、東北端の大きな岩壁には5mを超える不動明王が刻まれているそうですが、今となっては見ることができません。

◼️東面壁の千仏
◼️東面壁の十一面観音(中央)と千仏

 ここ「鵜殿石仏群」は、現存している磨崖仏の数も多く、時代ごとの作風の違いも見ることができます。特に三体ある不動明王は、それぞれ風体が異なっているので、比べてみても面白いかもしれません。また、現地に立ってみて、戦乱で崩落する前の石窟寺院の風景を想像し、歴史に思いを馳せるのも良いかもしれません。
 佐賀県の史跡指定を受けていることもあり、覆屋が付けられるなど管理は行き届いています。他の磨崖仏群と比べても来訪者は多いようで、私も行く度に見学者とすれ違います。前回紹介した「立石観音」と合わせて相知町の石仏巡りコースにもなっていて、“多聞天くん”というキャラクターもいました。周辺には、松浦党・波多氏の居城だった岸岳城跡や波多八幡神社、唐津焼発祥の地・岸岳古窯跡などともあり、非常に歴史スポット(特に中世〜近世)の多い地域です。歴史好きかどうかに関わらず、散策するにも良いロケーションだと思うので、是非訪れてみてください。
(今回の写真は、2009年〜最近まで撮ったものが入り乱れており、色味やサイズがバラバラです。ご了承ください。)
                                 [肥前見聞録] T.Kawamichi

◾️2015年制作
★佐賀県の磨崖仏をPRするために制作
仏教佐賀史跡唐津

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