6月24日(土)に、最近ちょっと世間を賑わせている発見があった吉野ヶ里遺跡へ。昨年から発掘調査が行われている日吉神社跡地で発見された「箱式石棺墓」の特別公開を見に行ってきました。(2日間だけの特別公開)昨年、甕棺が出土した時にも見学に来ましたが、その区画よりもさらに丘陵の上の部分にありました。
実際に発掘現場を見てみると、出土した石棺墓は思っていたよりもかなり小さく細長い印象です。現代人より身体の小さかった弥生人であっても、女性か子供しか入らなさそうな大きさ(幅)に見えました。今だと小学生ぐらいでしょうか、成人男性は入らなさそうです。そして、高貴な人物が埋葬されている可能性にも通ずる赤い顔料も内側に見ることができました。
石蓋のほうは、どっしりとした石板で、完全に墓室に蓋ができるほどの大きさです。「×」や「+」の線刻紋様がはっきりと、しかもたくさん刻まれていました。(見やすいように濡らしてありました)この線刻紋様は、呪術的な意味があるとも言われていますが、それ自体の意味の解明は難しいとのこと。吉野ヶ里の一族の印のようなもので、埋葬の時に一人ずつ印を刻んだのかもしれないそうです。(お葬式で、各々が菊の花を入れたり、お焼香したりするのと一緒?)
この石蓋は、安山岩でできているそうですが、吉野ヶ里周辺には存在しない岩だそうです。どこからかわざわざ運んで来たことになりますが、100kg以上の重さの石をどうやって…?弥生時代は、吉野ヶ里の付近まで海でしたし、側には田手川もあるので、舟を使えば運べないこともないのですが…これも謎ですね。
石棺墓内部からは、残念ながら目に見える形の遺物の発見はありませんでした。日本の土は酸性土壌が多く、有機物は分解されてしまうそうで、人骨があったとしても土に還ってしまっているそうです。副葬品も、有機物であれば溶けて分解されしまっているとのこと。鉄やガラス製品であれば固形で残るそうですが、今回は見つかっていません。内部の土はブロックごとに保存してあって、これから成分を分析するそうなので、人が埋葬されていたか、副葬品があったかは解明できるようです。石棺墓の外側にも発掘ポイントがあり(下記写真参照:丸い線で囲われた部分)、土の色が若干違っていて何かを埋めた跡なのだそう。素人目には全く分かりませんね…。これから調査するそうなので、何か遺物が見つかるかもしれません。
ちなみに、過去に盗掘された痕跡は全くなかったとのことで、ちょっとホッとしました。日吉神社があったこの地は、戦国時代には「日吉城」という城があり、少弐氏と龍造寺氏の戦いの場となった所です。(北墳丘墓の上にも砦があったそうなので、周辺の丘陵地系を利用して城を築いていたのでしょう。)それ以前にも、吉野ヶ里では少弐氏と大内氏による「田手畷の戦い」がありました。度重なる戦で石棺墓が荒らされたりしていなければ良いが、と勝手に心配していたのですが、杞憂だったみたいです。ただ、過去に盗掘の可能性がないということは、今回の発掘で出土したものが全て、ということにもなります。石棺墓に重要な遺物はなかったということになり、ちょっと残念ではあります。
しかし、発掘調査は、予定の6割を終了した段階ということで、残り4割の区画が残っています。以前に発見された北側の大規模甕棺墓列に連なる場所でもあるので、もっと重要な発見があるやもしれません。それを楽しみに調査が進むのを待っていようと思います。
[肥前見聞録] T.Kawamichi